同じ空の下で
2014年 11月 20日

人生で経験する印象的な出逢いはもちろん、なんてことない会話だったのに後からその温かさと深さに気が付いて驚いたり、今この瞬間がありえないくらい幸せ、でも本当にこの瞬間だけの奇跡だと冷静に頭でわかっていたり…ひととの関わりの中で何度も訪れる静かな「気づき」を改めて思い返したときに、きらりと光る小さな輝き。そんな瞬間がたくさん散りばめられたのが、 よしもとばななの短編集 「デッドエンドの思い出」。
古本屋さんの入り口の平台で目にして、帯に書かれた 「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きです。これが書けたので、小説家になってよかったと思いました。−よしもとばなな」 に惹かれて、連れて帰ってきたのが3年ほど前でしょうか。
ばななさんの作品は初期のものはほぼリアルタイムで4~5冊読んでいましたが、それからはごくたまに短編集とエッセイを読む程度でしたので、ずいぶん久しぶりの再会。読み進めるうちに、なんだか「記憶の中のばななさんの文章」とは違う気がして、そこに囚われて純粋に作品を楽しめなかったように思います。印象的なシーン、好きなシーンはあるのに、全体では好みじゃないというか…「これが書けたので小説家になってよかった」という重さを、求めすぎていたのでしょうね。
少し前にふっと思い出してもう一度読んだら、登場人物たちの会話での「好き」と思えるシーンのところに印がしてあるのに気が付いて、そこはやはりわたしにとって「時間が経過しても共感できる」価値観なのだなと思ったり、「好みじゃない」と思った原因がどこにあったのかが分かったり、いろんな意味で再認識ができました。そして、「あれっ?」と思った言い回しのひとつひとつまでもが、これを書かないことには全体が描けない、必要な要素だったんだろうなぁ…なんて思ってみたり。
「今、この別々の空の下で、お互いが痛いくらいに切ないのがわかって、私の心の中にはまたあの店の二階の窓から見る光景と、果てしなくいちょうの葉が降り積もる静かな金色の世界が浮かんできた。」
「きっとそれは私の心の中の宝箱のようなものにおさめられ、どういう設定で見たのか、どんな気持ちだったのかすっかり忘れ去られても、私が死ぬときに幸福の象徴としてきっときらきらと私を迎えに来る輝かしい光景のひとつになるだろう、と思った。」 −「デッドエンドの思い出」より−
単行本で出版されたのが03年、出産を控えた大きなお腹で執筆していたとあとがきにあり、さらに文庫化されたのが06年、出逢って連れ帰ったのが10年頃…そして今、読みかえしながら、そのときに生まれた子がもう10歳になるのね、と考えてみたり。「そのとき」だからこそ描けたこと、その衝動、いろんなエネルギーが詰まっている作品集なのだなと思います。ある意味でもう、好き嫌いを超えてるかも。いえ、苦手な描写はあるんですけれどね(笑)、それはそれ、と思えます。
ずいぶんと時間が経って、その後の著作もたくさんあるんだろうなと、先ほど著作一覧をちらりと見てみたら…単行本(小説)の中で「デッドエンドの思い出」は、ちょうど真ん中のあたりでした。ばななさん、今でも、「デッドエンドの思い出」が、いちばん、好きでしょうか…?なんて、ココロの中でそっと、問いかけてみたりして。答えはきっと、読者それぞれの胸の中に。いえ、もしかしたら、すでにご本人が何かのインタビューでお返事されてるかもしれませんけれど、ね。
失われてしまった時間の中で輝く瞬間もあれば、今、目の前の小さな幸運も、いつか懐かしく思い返すときが来る。二度と会わなくても幸せを願うひとがいる。見上げる景色や雲のカタチは違っても、同じ空の下にいろんな想いが溶けている。そんな温かさに満ちた5篇の物語たちでした。
↓お菓子の話ではないけれど…
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