映画『西の魔女が死んだ』

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 去年の夏にご紹介した本が6月に映画として公開されると聞いたのが4月でした。それ以来、ドキドキしながらも楽しみにしていました。思いいれのある本だけに、配役や風景など、自分のイメージしていたものとあまりギャップがなければいいなぁって…

 学校へ行けなくなってしまった主人公「まい」とイギリス人の「おばあちゃん」との回想シーンで構成されるこのお話は、「自分のことは自分で決める」「日々を規則正しく丁寧に暮らす」など、一見当たり前のようでいて、実は難しいことを押し付けがましくなく描いています。野いちごを摘んでジャムにしたり、シーツを手洗いしてラベンダーの上に干して香りを移したり、日常としての描写がある中で、「ひとは死んだらどうなるの?」という「まい」の問いかけに真摯に答える「おばあちゃん」とのやり取りがあったり、原作にかなり近い描かれ方をしていたのは嬉しかったです。

 それでも。「映像」として具体化されたときに、どうしても原作になぞって観てしまうので、映画の中で描かれなかったシーンのいくつかが瞬時に脳裏に浮かんでしまって「あれ?あのシーンは?」と違和感を残しながら観るかたちになってしまったのが残念ではありました。文章を読みながらイメージするとき、ひとは自然と自分の今までの体験や想いを乗せてしまうものですから、主人公の気持ちを追体験しているようで実は自分の感情もかなり入り込んでいるのですよね。境界線がどんどんあやふやになるというのか…それが映画では、映像として次のシーンに移ってしまうせいか、境界線が残ったままでした(笑)。公開されたばかりの映画ですから具体的にどのシーンとは云えないのが残念ですけれど…

 云ってしまったひとこと。云えなかったひとこと。どちらも、心に大きな影響を残します。気がつかなかった振りをしていても、何かの拍子に閉じていた蓋が外れて中身がぶわぁっと溢れて来るような、そんな感情の渦に巻き込まれるような錯覚を覚えるくらいに、時として「記憶」は恐ろしく鮮明です。「今現在」に起こっていることよりも遥かにリアルに浮かんできたりするものですよね。そんな想いの数々を、もっと映像表現として繋げてほしかったと、思いました。原作に敬意を払って、あまり押し付けがましくないようにという配慮からだったのかもしれませんが、ややもすると、唐突な印象になってしまうかな…と。原作を読まずに観たひとには、ちょっと分かりにくい部分が残るかもしれません。

 誰にとっても、自分の居場所を探すのは、大変なこと。ましてや学校生活という閉じられた場ではなおさらのことですね。あたかも「それがすべて」と思いがちですが、実は人生においては、ほんの一瞬のことなんですよね。本当に大事なのは自分がどう生きたいか、そのために何ができるか。物事の上辺ではなく、本質を見る目を養うこと。偏見で他者を排除するのではなく、自分のあるべき姿勢を貫くこと。他人に迎合するのではなく、自分が自分らしく居られる術を探すことは、決して「逃げている」のではなく、かなり前向きなアプローチなのだと…人間関係や将来の選択に悩む若いひとたちにとって、とてもいいメッセージになる映画だと思います。そしてもちろん、若い世代と関わるひとたちにとっても。シンプルな問いかけに、いったいどれだけ誠実に答えられるでしょう。自分の人生で経験したことを、どれだけ「伝えようと」してるでしょうか。実際にどれくらい伝わるかは別として、伝えたいと思う熱意こそが心を大きく動かすのだと再認識したのでした。

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by farine12 | 2008-06-24 17:08 | 映画に想うこと | Comments(0)

創作スタジオ粉工房のブログ。レッスンの様子や日々のあれこれを綴ります。


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